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(無題)

 投稿者:攝津正  投稿日:2012年 5月17日(木)09時50分48秒
  『ウェザー・リポートの真実』は未読ですが、高橋悠治→坂本龍一とか、キース・ジャレット、ジョー・ザヴィヌルというのは牽強付会ですよね。高橋悠治はジャズを強く批判し続けているし、坂本龍一も若い頃渡辺香津美のアルバムに参加したことはあっても、ジャズのセッションを本格的にやったのは最近のNHK教育の『スコラ:音楽の学校』でのセッションが初体験だったそうです。それに、高橋悠治から坂本龍一の影響関係といっても、二人で『新ウィーン楽派ピアノ曲集』を出していたり(四手の曲に坂本龍一が加わります)、『長電話』という対談?を出したりというだけでしょう。坂本龍一のあれこれの映画音楽に高橋悠治の影を見て取ることはどうしてもできないと思います。  

(無題)

 投稿者:攝津正  投稿日:2012年 5月17日(木)09時29分27秒
  アウグスティヌスには詳しくないです。岩波文庫に入っている『告白』を覗いたくらいですが、彼にはそれ以外にも『三位一体論』など重要なテキストがありますよね。

トマス・アクィナスの対抗馬といえば、初期の教父達、ちょっと異端的なプラトン主義者(新プラトン主義者)、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカム…が思い浮かびます。宗教の本質は沈黙ではないのかというご意見、尤もだと思います。私は、スコラ哲学者の権威がどうして失墜したのか少し考えてみました。一つには、勿論、経験科学が勃興したからということもあるでしょう。ですが、それだけではないと思います。宗教改革、特にプロテスタンティズムによって一人一人の市民が『聖書』を直接読むようになったことが大きいと思いますね。それには印刷術などの前提になる技術もありました。

どうして私がそう思うかといえば、『聖書』、特に『新約聖書』を実際に読めば、そこにはスコラ哲学者が展開するような非常に細かくてどうでもいいような概念的な思弁など全くないからです。普通の読者なら、スコラ哲学者のいうことには根拠がないし、あのややこしい理屈を理解する意味もないから、スコラ哲学など読まず『聖書』を読めばいい、という結論になると思います。どうでしょうか? 『新約聖書』にあるのは、イエスという男の伝記(かなり脚色され伝説化されていますが)と彼の巧みな比喩だけです。

いわゆる四聖といいますよね。ソクラテス、イエス、孔子、釈迦という。昨晩考えていたのですが、例えばヤスパースとか現代の「モラロジー」のように彼らを並列することはできないと思うのですよ。それは東洋と西洋という文化の違いを無視することになりますし、哲学と宗教の違いを無視することになります。ソクラテス以外は哲学者ではありませんよね。そのソクラテス自身にせよ、本を書かなかったというだけではなく、哲学史においても非常に特異な存在だと思います。プラトンの対話篇を読みますと、19世紀のニーチェの批判を待たずとも、ソクラテスのいうことがちょっとおかしいのではないか、と感じます。例えば彼は、ありとあらゆる現実政治家や将軍をさし置いて、自分こそが唯一の真の政治家だなどといいますが、そういう彼が殺されてしまったのも仕方がないのではないでしょうか。それから、プラトン以来、「ソフィスト」には悪いイメージが付き纏います。ですが、私は「ソフィスト」連中は実際に立派な人達だったと思うのですよ。現代世界では弁護士のようなものを想定すればいいでしょうが、弁護士が言論・言説にしか関わらないという理由で弁護士を蔑視したり否定する人が今いるでしょうか。そう考えると、ソクラテス=プラトンの言い立てる理屈が変ではないかという気がしますね。「ソフィスト」は当時のギリシャ世界の社会的名士ですよ。それをことさらに否定してやっつけるところに、何か悪意とか顛倒を感じますね。そういうソクラテス=プラトンの議論(問答法、対話篇)から導かれるのは当然、真理を所有するのは哲学者だけだというような自己肯定です。その哲学者が、現実的・社会的には無であっても、ですよ。実際ソクラテスは、ほんの数人の若者を相手にぼそぼそ語り掛けるというだけの存在だったのです。そういう彼が、自分こそ(自分だけが)真の政治家であるなどと主張することの悪意を想像すると、ちょっとぞっとしますね。
 

「動物、万歳」

 投稿者:後藤雅洋  投稿日:2012年 5月17日(木)08時49分21秒
  攝津さんと「万歳」の意味内容が違うかもしれませんが、私も「動物好き」とは違う意味でけっこう「動物、万歳」です。「坊主バー」というジャンルがあるのですか、そう言えば四谷2丁目にも「坊主バー」があって(行ったことはありませんが)、おかしなところだなあとは思っていたのですが...

『ウェザー・リポートの真実』の著者、情熱は圧倒的なのですが、ふつうの音楽ファンに自説をわかりやすく説明する努力が少し欠けていますね。というか、彼が想定する読者層がいまひとつわかりにくい。一般人相手には複雑な「自家製用語」の使用がネックになっており、また専門家相手にしては、失礼ながら若干実証性に問題点が無きにしも非ずで、結局「不遇」を囲うことになる。

私も彼の「グチ」を何時間も聞かせられたことが何度もありますが、最後は「文句言ってる時間があるなら正当に認められる努力したら」って思いをいつも抱かせられます。ちょっとキビしすぎるかもしれませんが...

話は変わりますが、ほんとうに宗教的な「悟り」の境地に達した方々は、どちらかというと沈黙の方向に向かいがちですね。釈迦にしてもキリストにしても、いわゆる「テキスト」は残していない。単に弟子たちによる「伝聞」が今に伝わるのみです。私はそこに宗教の本質のようなものを感じます。ところでトマスの対抗馬、アウグスティヌスはいかがですか?
 

(無題)

 投稿者:攝津正  投稿日:2012年 5月16日(水)09時55分24秒
  https://twitter.com/#!/ttnkhr/status/201704356163227648
「ウェザーリポートの真実」の作者の方と友達と三人で新宿で飲んできた。その方がひたすら6時間近くに渡って熱く語り続け、ものすごい情報量を浴びて帰宅し、くたくたになってる。

https://twitter.com/#!/ttnkhr/status/201705956009181184
半分以上がその方のこれまでの受難のお話だったのだけど、まあなんというか難しい人というか、真面目で純粋すぎるが故に生きて行くのに大変な苦労をされている方なんだなと思った。(目上の人に向かって失礼な言い方かもしれないけど。。)

https://twitter.com/#!/ttnkhr/status/201709993727242241
「ウェザーリポートの真実」を読んでいても思ったことだが、コーダル/モーダルというのは実は簡単に分けられるものではないのだなということ。あの方は現在通説となっている音楽史の見方を覆すような考えを持っておられて、非常に知的好奇心を刺激された。

https://twitter.com/#!/ttnkhr/status/201716561252335618
・・・といいつつメモがわりに少しだけ書くと、12音技法以降の現代音楽の作曲家がやってきたことは未だに音楽理論として体系化されていないのではないかということ。音楽はリズムや音色だけでなく和声についてすら未だ理論的に探求されつくしてないのではないかということ。

https://twitter.com/#!/ttnkhr/status/201718621628669953
音楽理論や思想は脱近代を志向するにしても多くが未だ近代に縛られているように思えるが、近代とか関係ない別のもっと大きなパースペクティブがこれから見えてくるのではないかということ。

https://twitter.com/#!/ttnkhr/status/201720034723233793
あの方の場合、クセナキス→高橋悠治→坂本龍一という系譜、そしてキース・ジャレット、ジョー・ザヴィヌルについて考えることによってそのパースペクティブを明らかにしようとされている。

===
@com_post_infoさんが提供してくれる情報は実に有益ですね。https://twitter.com/#!/com_post_info

高橋悠治から坂本龍一というのは飛躍ですし、それとキース・ジャレット、ジョー・ザヴィヌルがどう関係するのか意味不明ですが、面白いことは確かでしょう。

さて、パリには「哲学カフェ」がありますが、日本にはないし、どうみても商売として成り立たないでしょう。ヨーロッパというよりパリの特異性なんじゃないでしょうかね。その代わり、日本には各地に「坊主バー」があります。中野にもあります。知り合いの知り合いが、10年前くらい、店を開きました。その彼は、坊主ですが、パリに遊んで、生前のフーコーのコレージュ・ド・フランスでの講義を聴講していました。──「HIVウイルスが混じった唾液が飛んでくる」最前列で聴いていたそうです。その坊主が、「あかね」で、フェミニスト連中を相手に一知半解の自己流フェミニズム理論を開陳して、彼女達を怒らせていたのが懐かしく思い出されます。ちょっと可笑しいですね。

トマス・アクィナスをそれほどすらすら理解できるわけではないですが、そういうならカント、フロイトやレーニンなども同じです。そういう著者を全集の第1巻から読もうとしても、代表作(『純理』、『夢判断』、『帝国主義論』など)ではないわけですから、読解は困難です。トマスについては、あの膨大な『神学大全』の意味をちょっと考えてしまいます。トマスは晩年に、宗教的な啓示体験があり、自分が書いたものには意味がないし間違いだと考えるようになり、執筆を止めてしまったそうです。そして、そのまま死にました。私は宗教を信じませんが、ひょっとしたらトマスは本当に重要な何かを体験したのかもしれませんね。ですが、彼はそれを言葉で表現しませんでしたから、彼の体験の内容やその意味が何だったのかということを、後世の我々が理解することは絶対にできません。そうしますと、トマス自身にとっては不本意かもしれないとしても、我々は遺された『神学大全』でトマスの思想を判断するしかないでしょうね。

ジャズ+その方面+哲学といえば、ずっとジャズをBGMで流している有名なゲイバーがありましたが、店名を忘れました。一回行ってみたことがあると思います。たまに二丁目に遊びに行っても、気難しい私にはちょっと無縁な世界です。若い子達は、それこそ動物のように人生を楽しんでいるのかもしれませんが、それでいいし、何の問題もないでしょう。年長世代、年寄りは、あれこれいいたがりますが。《二丁目は檻のない動物園だ》とか《若い連中には憂いがない》とか、いろいろと。……しかし私は、そういうことは若い子には関係ないと思うのですよ。それが先日、二丁目を観察してみての感想です。動物、万歳。
 

ぜひ開店を!

 投稿者:後藤雅洋  投稿日:2012年 5月15日(火)17時36分52秒
  ジャズだけではいまどきお客を呼ぶのは難しいですが+その方面+哲学という組み合わせはかなりニッチですが、一定の固定顧客層を呼べそうな気がします。攝津さんがうまくそれぞれの方々の融和を図ることができれば、21世紀日本のアングラ文化に貢献することになるかもしれませんよ。

それにしても、トマスとは渋すぎです。


ちなみに『ウェザー・リポートの真実』の著者、よ~く知っております。実に興味深い方です。
 

(無題)

 投稿者:攝津正メール  投稿日:2012年 5月15日(火)16時41分23秒
  Twitterでcom-post-infoがretweetしていた、『ウェザー・リポートの真実』の著者の話が面白かったですね。彼は、音楽(ジャズ)はまだハーモニーすら探究されていない、と考えており、キース・ジャレットに今後の方向性を摸索しているそうです。

『廣松渉著作集』全10巻、あっという間に図書館に届きました。半日掛からないという素早さです。これからすぐ行って取ってくるか、明朝取りに行ってきます。図書館の貸出冊数上限がありますから、トマス・アクィナスその他の読書が中断されるのは残念ですが。

それはそうと、二丁目に店、出したいですねえ。是非ともね。

http://www.geocities.jp/tadashi_settsu/

 

(無題)

 投稿者:攝津正メール  投稿日:2012年 5月15日(火)12時15分42秒
  『廣松渉著作集』1-10巻、図書館でリクエストしました。他館からの取り寄せになりますから、ちょっと時間が掛かります。

「美学」についてですが、そういうジャンルが出来たのは近世・近代のはずです。カントの同時代人の誰かだったと思います。バウムガルデンとかいいましたっけね。

そして、カントの『純粋理性批判』以降、エステティックという同じヨーロッパ語が、「感性論」と「美学」とに分裂してしまいます。「感性論」は価値の問題を含まず感覚について論じるもので、『純理』の領分ですね。「美学」のほうは、カントの場合は自然美が対象ですが、何らかの美、崇高、合目的性などが対象になり、『判断力批判』の領分です。

ドゥルーズは『差異と反復』以降、そういうふうに近代において分裂してしまった「感性論」と「美学」を統一したいという抱負を述べていますが、うまくいったようにはみえませんね。事実をいえば、彼の著述には、個々の絵画論や映画論があり、そしてそれだけでしょう。そういう芸術論は「感性」についての論及とやはり何の関係もないままでしょうね。

学問としての美学ということでいえば、美術の領域ですが、以前申し上げたヴェルフリン、ヴォリンガーがいます。彼らはカント的な「批判(批評)」を排し、客観的な様式の継起として美術史を捉えようとし、例えばヴォリンガーは「抽象」と「感情移入(自己移入)」という異なるタイプを見出しました。彼らは非常に広汎な影響を与えています。西田幾多郎からドゥルーズに至るまで、こういった美学者、美術史家の著作を参照しています。

さて、ジャズを含め音楽の領域で同じようなことをやるのは、恐らく難しいでしょうね。

http://www.geocities.jp/tadashi_settsu/

 

学問としてのジャズ

 投稿者:後藤雅洋  投稿日:2012年 5月15日(火)07時37分6秒
編集済
  あまりちゃんと考えたわけではありませんが、「学問としてのジャズ」ということなら、まず正確なデータ、ミュージシャンの生没年、出身地、経歴、録音の記録などの整備が基礎なんでしょうね。これらの研究はやはり大切なことだと思います。文藝研究でいえば書誌作りにあたるのかしら。

ただ、そこからパーカー、パウエルの天才性がうまく浮かび上がってくるとは思えません。やはり美学上の問題は「価値」の概念と結びついているので、そこに恣意性や感受性が忍び込まざるを得ず、また、それでいいのだとも思えます。

非常に無責任なことを言わせていただければ、人間にはそれぞれ向き不向きというものがあるわけで、どちらが上ということではありませんが、「研究向き」というか「データオタク」みたいな方々と、演奏の質の価値判断に関心が向かう人たちに分かれる傾向があると思います。

もちろん、両者のバランスが大事で、一人の人間のなかにも二つの傾向が混在しているのだと思います。その上で言えば、私はかなり後者寄りなので、研究はそちらに向いた方々にお任せ、みたいなところがるんですね。まあ、役割分担かな。

それにしても「美学」って、学問なんですかねえ。よくわからない...
 

(無題)

 投稿者:攝津正メール  投稿日:2012年 5月14日(月)15時02分3秒
  後藤さん、廣松渉の『存在と意味』、今度検討してみましょう。ただ、月曜日は図書館が休館日ですから、ちょっと先になります。他館から取り寄せなければなりませんしね。『ウィトゲンシュタイン全集』の月報に廣松渉が書いていましてね。ウィトゲンシュタインはゲームのルールそのものを変更しようと言い出さないから安心だそうです。なるほど、そういう見方もできるのかな、とは思いましたが。

com-post掲示板に投稿されたtogetter、ちょっと覗いてみました。全部精読したわけではありません。「感想文」「学問・研究」「批評」という区別はあるでしょうね。ただ、クラシックはともかく、ジャズにおいて「学問・研究」がそれほどちゃんと成立しているようには私にはみえません。菊地成孔や大谷能生の仕事もまだ「学問・研究」というほど客観的なものでも実証的なものでもないでしょう。大谷さんの日本の戦前のジャズについての著書は参考になりましたが。

まあ、学問・研究を目指すと、それほど大胆な結論を導くことはできないでしょうね。以前この掲示板で紹介しましたが、日本の現在の「音楽心理学」の試みにせよ、音楽論としてそれほどのことをいっているわけではないです。科学を目指す限り、「価値」を全く語れないか、或いは、語るのが難しいのは事実でしょう。しかしながら、チャーリー・パーカーやバド・パウエルその他を、価値評価という視点を全く抜きにして語るのも困難でしょう。そうしようとするならば、パーカーがビバップを創ったとか、パウエルがピアノ・トリオのフォーマットを確立したというようなただの一般論になってしまいます。そうすると、どうしても「批評」のレヴェルが必要だということになってしまうのではないでしょうかね。勿論その批評家の意見が、一般の聴衆に比べてそれほど根拠があるのか、妥当なのかどうかという点については、個々のトピックについて、例えば、大西順子、ウィントン・マルサリス、90年代ジャズ等々について、検討しなければならないでしょうね。

http://www.geocities.jp/tadashi_settsu/

 

三軒茶屋ですか

 投稿者:後藤雅洋  投稿日:2012年 5月13日(日)20時59分0秒
  今度行ってみます。ありがとうございました。しかし、目黄不動はどこにあるんですかねえ。あの推理小説は、陰陽五行説がキーワードだったんですよね。もう忘れちゃったけど...
 

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